鬼人事クマさんのブログ

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公⇨私は美徳、私⇨公は禁忌の日本的ダブルスタンダード

休憩中にブログをアップする事は公私混同か?という事を思ったので今日は公私混同について考えたい。

公とは

公とは、辞書的な意味では、個人の立場を離れて全体に関わる事。社会。公共。世間。とされる。より身近な例では、電車や公園、店舗や職場など、つまり家を一歩でも外に出ると公という事になるだろう。

もちろん仕事場もたくさんの人間が組織を成している以上、極めて公の性質が高いものである。そこでは自分の部屋の中に居る時のような“自由”は強烈に制限され、法に縛られた“不自由”の中で自分を律していかなければならない。

私とは

一方で私とは、自分ひとりに関係のある事。個人的なこと。とある。

部屋で裸で居ようが、ひたすら夜中までネットゲームに励んでいようが、他人への影響はほぼ皆無であるので、自分の部屋というのは私の場であるといえる。また、昼飯に牛丼を頼もうが、パスタを食べようが、今自殺をしようが、募金をしようが、誰にも制限はされないという私の権利というのもあるだろう。

公私混同の本来の意味

さて、公私混同の意味であるが、業務上、あるいは公的に携わっている事柄と、私的な事情とを区別せずに扱う事。業務に私情を持ち込むこと。とある。つまり、文字通り業務と私とを区別せずに扱う事を公私混同という事だ。

たまに「あいつは嫌いだから」という理由で業務上有益な社員を貶めたり、その社員の足を引っ張ったりする社畜が居るが公私混同の典型である。

さて、公私混同は望ましくないというのは私も社畜達も一致した意見だろう。そこは論を俟たない。

問題なのは公の場で私を出す事は禁止するのに、私の場で公を出す事には禁止はおろか、それを美徳と感じ、賞賛してはいまいかという部分にあるのだ。

公私混同の日本的な意味

日本ではことさら私⇒公のベクトルでの公私混同は問題にするが、公⇒私のベクトルでの公私混同は問題にされない。

社会人の常識、という明文化されていない勝手な規則を持ち出し、始業時間前に無意味な出勤(無賃金)を促したり、就業後に会議(無賃金)を入れたりする社畜が居るが、これは明らかに公私混同であり、逆に朝ドラを見たいので始業時間を遅めてください、デートがあるので終業時間前に帰りたいですと要求するのと、ベクトルの方向が違うだけで意味は同義である。

もちろん、公共の福祉や法律、業務命令に沿ったものであれば、私の部分は制限され得るが、「始業前に朝礼を行うから10分前には来る事(ただし無賃金)」はどれにも当てはまるものではない。

私である個人の自由時間を公としたいのならば、その時間を雇用契約書・労働基準法・就業規則に則って仕事として正式に拘束しなくてはならない。契約に基づいて適切に仕事として任務を与え、当然のように賃金を支払わなければならない

私である個人の自由時間を公に変えるという契約も経ずに、上司の命令を実質拒否が出来ない部下に対して「もっと早く来い」という事こそ大いなる公私混同というべきである。*1

私にもっと重きを置くべき

30年前までは会社に滅私奉公していれば、生活全てを保障された。会社に全てを捧げたある意味全くの無私であったとしても、十分な給与を基に確りとした生活を一生涯送れると考えられてきたし、実際もそのとおりであった。

その頃は無私になる事に今以上の大きなメリットがあったのだ。

「高度成長期の社会人像」を叩き込まれた世代には、今の20代〜30代がなぜ無私になれないのか、不思議でならないであろう。

しかし時代は変わり、会社は社畜すらクビにし、派遣やパートなど非正規労働者を実務の中心に据えるようになった。

これからは滅私奉公したとしても十分な給与を基に確りとした生活が一生涯送れるかどうか、ブラックに近いかなりグレーなラインである。そもそも、会社員生活を続ける40年間、勤める企業が生き残っているかも不明である。一昔前に比べて無私の状態になる事は明らかにリスキーなのだ。

今後は出来るだけ多くの私をつくり、将来に備えた行動をする方がリスク回避という点においては益々重要となってくる。今の若い人はそう考えているのだ。

*1:それでも「公私混同ではない」と言い張る社畜には「だったらいつも遅く来ている社長に対して同じ事が言えますか?いつも早く帰っている常務にも同じ事が言えますか?」と言ってみると良いだろう。